大学という斜陽産業 -191ページ目

地震

昨日、福岡県西方沖を震源とする地震が起きた。昨年には新潟県中越地方の大地震があった。

被災地の方々には心より御見舞い申し上げることしかできない。だから、学生などが被災地にボランティアに行くと聞くと、本当に偉いと思う(ゼミ生に実際に居るんです)。

いくら理系の人間ではないからといって、どうしていつまでたっても地震を予知できないのだ、なんていう文句を言うつもりはない。

でも、暖冬とか、昨年のような猛暑の夏をもって異常気象であるなんてマスコミでは言うけれど、果たしてそうなの、と言う素朴な疑問がある。地球上の歴史の中で、人類の歴史は非常に短いものであり、その中でも記録が、しかも科学的な方法で記録が取られている期間も非常に短いものだと思う。だから、これが異常ではなく、これまでの(比較して)安定していた方が異常だということだってあり得るはずである。

ここでクーンのパラダイム論なんてもってくると研究者のブログらしくて良いのかもしれないね。

とはいえ、夏が暑すぎるのも、冬が寒すぎるのも勘弁して欲しいというのが本音である。

Firefox

ブラウザーを変えました。

そんなにコンピュータのことに詳しい訳ではないのですが、マイクロソフト製品からからできるだけ遠ざかろうとしています。でもOSはあきらめてWindowsを使っていますけど。(MACやUnix系を使えばいいじゃん、て言われそうですけど)。

用心しているので直接やられたことはないのですが、ウィルスとか、嫌な面ばかり目につくし、以前たまたまプレインストールされていたワードを使ったら使いにくかったので、ワープロは一太郎、ブラウザーはネットスケープと、どちらかというと今や少数派のソフトを使っています。

ウェブサイトも、IEでの動作確認のみ、なんていう許し難いものが増えてきて、ネットスケープだけではちょっと困っていたので、IEにも近いという話を聞いたので、ブラウザーをFirefoxにしました。結構良い感じです。無料なのもいいですね。関心のある人は、

http://www.mozilla-japan.org/

からどうぞ。

会議好き~時間の無駄はお金の無駄なのに

大学に就職して一番感じたことは、無駄な会議が多すぎることだ。まあ、入学試験の合否判定など、教授会の承認が必要なものなどがあり、手続き的に仕方ない面もあるのだが。

でも、会議の中身も無駄が多い。その典型例が、報告事項とか、審議事項でも説明に要する時間である。例えば、資料を前もって配って各自が目を通しておくようにすれば、おそらく時間は半分もあれば終わるはずである。

説明の長い人、毎回訳のわからない質問をする人、またその質問にさらに訳のわからない回答をする人。反対意見が多くても、無理矢理自分の意見を通そうとする人。本当にいろんな人がいます。

会議好きの人に言いたい。あなたは機会費用という概念を知っていますか、と。教育に力を入れろ、というならば、その会議の時間を半分にして、その時間の半分でも学生のために使えば、随分状況は変わると思いますよ。

今年の歩留まり

どうも今年の入試の歩留まりの読み、大外れだったらしい。前にも書いたが、所詮一か八かの判定でしかないのだが、自分の勤務先(所属学部だけでなく他学部も)だけでなく、自分の聞く範囲(自ずと同じようなレベルの大学の動向を知ろうとするので、非常に限定されているけれども)では、例年の歩留まり率を大きく下回っていて、予定の入学者数に達しないのではと危惧している。

この場合、選択肢は大きく分けて2つ。1つは動じずその事実を受け入れる(たとえ定員割れであっても)。もう1つは追加合格者をだしたり、あらかじめ出している補欠合格者を合格させる。

この選択に当たっては、いろいろ考える訳である。来年、確実に入学者数を確保できる(そんなことはないのだが)のであれば、1つ目の選択肢を取りたがるだろう。なぜならば、合格者のレベルをさらに落とさずに済むからである。

しかし、来年のことはわからない。そうなると、まずは今年の定員の確保が優先されるためは、2つ目の選択肢が取られることになるだろう。ただ、この定員には、学内的には2つの面がある。まずは、文字通り募集人員数である。業界用語で文科省定員と言われる定員である。一般に定員割れ大学と言う場合の定員は、この文科省定員を意味しており、これが半分を割るならば、私学の場合私学助成が受けられなくなる。

もう一つが、財政的に確保することが求められる定員である。目標定員とか予算定員とか言われ、文科省定員の1.1倍とか1.2倍という形で設定される。

もちろん、対外的には文科省定員を確保していれば体面は保てるのだが、学内的には、目標定員を確保できないと、上から色々言われるのである。

無責任体制~経営の視点

ライブドアによるニッポン放送の買収劇は、会社は誰のものであるのかという問題を改めて日本社会に問いかけている、という意見が見られる。そこで考えさせられるのは、大学は誰のものか、ということである。

とはいえ、ここでこの問に直接答える訳ではないが、会社の統治体制、最近の用語法で言えばコーポレート・ガバナンスに相当する観点から、大学経営をちょっとだけ考えてみたい(たまには真面目な問題も考えてみたい)。

結論的に言えば、私学の理事(経営者)は責任を問われる体制になっていない。にもかかわらず、近年の大学改革は、理事側に大きな権力をさらに与えようとしているのである。

株式会社であれば、経営者(取締役)の選任は株主総会によって行われる。もし、無能と判断されれば、(任期途中での解任もあって然るべきだが)再任はされない。ただ、日本の場合、これまでは株式の持ち合いなどを通じて、けっこう馴れ合い的な経営が行われていたりしたので、正しくこの機能が働いていたかは疑問だが、仕組みだけは整っていたといえるだろう。

大学は年度末であり、新年度に向けて予算やなにやらと色々と動き出しているが、その一方で、一年の総括もしなければならない。まあ、総括といってもそんなに組織だってやっているとは限らないが。しかし、この時期一番の問題は、なんと言っても新入生の確保である。以前も書いたが、大学の教員・事務職員にとっての食い扶持の確保である。

現場レベルでは当然、日々色々な意思決定が行われるが、大学組織のトップの決断やリーダーシップが必要な意思決定の一例が、組織の改編である。その代表が、新学部の設立や、既存の学部の改組転換である。

一部の、もしくは多くの大学では、新入生の確保のため、あれこれと方法を考えているのだが、その1つにこの新学部設立等がある。勤務先もそうだ。しかし、これが結構奮わない。設立初年度は物珍しさもあって、そこそこ受験生を集めたりするのだが、2年目以降、受験生が集まらない。もちろん成功しているところもあるのだが、自分の所はどちらかといえば、失敗だろう(法科大学院も同じような感じらしい)。

この新学部設立の際の根拠付けは、まるで道路公団による交通需要予測のようなもので、てんで当たったためしがない。いや、もっとひどいかもしれない。だって、マーケティングのような市場調査を行ったりすることは少ないのだから。

そして不思議なことに、この失敗に対して誰も責任を問われないのである。場合によっては、そのときの責任者が、慣例に従ってさらに昇進していたりするのである。そしてその失敗は現場に押しつけられることになる。学部の予算の削減、人員の削減、賃金の削減などなど。そして現場はまた一つやる気を失うのである。

じゃあ、教員は責任感が強いのか?ってきかれても答えに窮します。だって、以前書いた(合否判定の謎)ようなこともありますので。

若くて真面目な人ほど忙しい

大学教員の日常・非日常 休暇名物で、この時期、大学教員が学生から暇そうに見られていることが書かれていました。まさに御意。

ちなみに、世間では(学生も)勘違いがあるようだけれど、私学の大半は、2月3月には講義がないけれど、春休みではない、ということである。入試等で忙しいので、講義をしていないだけである。あるとしたら、通常、小中高と同じく3月末から4月頭までの間である。

まあ、この時期、入試で忙しいというのは、受験生が多数いることなので、ある意味幸せですけどね。

休暇名物では、こんな指摘もあった。


ヒマな先生は、途方もなくヒマそうです。

研究はとうの昔に引退。講義も何十年と使いまわし。
雑務も『使えない』のがわかっているのでまわってこない。

これで年収300万円ぐらいだったら許してもいいんだけどなぁ。
教授ってことは…。



まさにその通り、である。大学では、若いか、真面目な人ほど忙しい、という傾向がある。いわゆる「雑務」と言われる仕事が回ってくるのである。しかし、この雑務という表現、人それぞれの所もあるが、概ね教育・研究活動以外のこと(大学の会議、クラブの顧問、入試業務などなど)を指すようである。

若い場合は、若いと言うことで仕事が押しつけられる。まだまだ研究もしたい(しなくてはならない)年代である。だから忙しい(はずである)。

真面目な人は、真面目に仕事をこなすので、「仕事ができる」、「使える」という評価を得てこれまた色々と仕事が回ってくる。もちろん、研究も真面目にしている。だから忙しい(はずである)。

しかし、この使えるというレベル自体、企業で言うと「使えない」レベルの場合すらある。大学なんて所詮、そんなものである。

使えないという評価を得ると、なぜか仕事が回ってこない。「あの人に頼んでも、結局誰かが尻ぬぐいをしなければならないから、(最初から)別の人に頼もうか」となるのである。企業だったらリストラの対象だ。でも、大学ではそんなことにならない。しかも年功序列賃金なので、若手の講師の倍以上の給料をもらっていても、仕事は半分、なんてこともある。


このように、使えないという評価を得て、雑用から解放されて、その時間をすべて研究に費やして、世界から称賛を浴びるような研究成果を出していればまだましなのかもしれない。でも、そういう人に限って、研究も教育も隠居生活だから始末が悪い。大学の財産は人と言うが、その人が財産どころか不良債権と化しているのに手の打ちようがないのが現状なのである。

確定申告をしました

今日は、確定申告の最終日である。かろうじて今日申告を済ますことができた。

以前書いたように、非常勤講師をしているので、税金を追加で払うことになった。自分の計算ミス(最初、還付される結果が出て思わず喜んじゃった)のせいで、結局、今日一日というか少なくとも半日はこれ費やした。機会費用を考えれば、追加で取られる税金以上のコストがかかったことになる。あ~あ、本当に何やっているんだろう、て感じだ。

以前、年末調整をきちんとしたときに、一旦税金が戻ってきて、確定申告をして税金をさらに払ったことがある。どうせ確定申告でさらに税金を払うことになるのだから、年末調整では生命保険料の控除など、細かい計算はしてもらわないことにした。その代わり、自分ですべて確定申告で計算するので、面倒といえば面倒なのだが、税負担をひしひしと感じる。これが源泉徴収だけで済ますと、税負担を余り感じなくなるそうだ。だからサラリーマンも確定申告をした方が良いと思うのだが。

コンパ会場がわからない

昨日、コンパの会費のことを書いたので、それに関連するネタで。

コンパのようにゼミで学外で集合する場合、集合場所は連絡してくるのだけれど、コンパ自体の会場の連絡がないのも、最近の傾向なのでしょうか。

彼らはこう言う。「集合時間に遅れても、携帯で連絡を取れば大丈夫ですから」と。

自分の学生時代、自動車電話はあったけど、個人で携帯を持つような状況ではなかった。だから、集合場所に行けない場合は、会場に直接行くことになる。

余談だけど、デートで一方が大幅に遅れるような場合、連絡も取れず、大喧嘩になるのは必至である(もちろん、携帯があるからと言って待ち合わせ時間に遅れるのは論外であるのだけれど)。でも、かれらは、○○の辺りに△時頃、という非常にアバウトな約束で待ち合わせたりする。この感覚はどうもわからない。

コンパ

この時期、卒業を控え、ゼミなどではいわゆる追いコンがあったりする。

例えば、この追いコンの場合、4年生を追い出すので、4年が主役というか、4年生の会費を軽減したりするのが普通だと思っていたのだけれども、最近はどうも違うみたい。

新歓コンパだったら、新入ゼミ生の会費が軽減される、迎え入れる方がやや多めに負担する。で、出ていくときには再び軽減されるというかんじで、皆が順繰りとなる。

しかし、最近の学生はこういう負担増を嫌う傾向がある。時代の流れといえばそうなのかもしれないけど、なんとなく寂しさを感じるのは自分だけでしょうか。

名誉教授

まあ、身内のお手盛りというのは民間企業でもあるのでしょうが・・・。

大学によってその要件は多少違うが、長年勤務されたり、業績が顕著な教授が定年退職される場合、名誉教授の称号が与えられる場合がある。しかし、この前たまたま見た名誉教授はすごかった。勤務期間は40年ぐらいで確かに長いのだが、業績がなんと両手で余るぐらいだった。もちろん、業績は数ではなく、質ではあるのだが。

例えば、1991年にノーベル経済学賞を受賞した R.H.コースは、その業績の少なさも話題になったぐらいだが、ここまで顕著な業績なら誰も何も言わないだろう。

しかし、世の中には、この名誉教授職、何らかの報酬が付いていると思っている人が意外と多い。あくまでも名誉。何もない。まあ、大学の施設(図書館等)が利用できるとか、たまにご意見を頂戴するという名目で食事会などの場を設ける大学もあるようですが。

あと、これは私学の場合しか起きない現象なのだが、国立大学を定年退職された高名の研究者、当然その大学から名誉教授の称号を得ている方を迎え入れ、その方が退職する場合に、さらに名誉教授の称号を与えるということがある。でも、その方は、絶対と言っていいほど、肩書きとして○○大学名誉教授と書いても、○○大学は国立大学の方だ。そんな人(いきなりここでの書き方も変えちゃったりして)に名誉教授の称号をわざわざ与えるのが不思議でならない。