大学という斜陽産業 -190ページ目

ガイダンス

新年度が始まり、在学生のガイダンスは一応終わった。別に教務の担当ではないのだが、個別に相談に来る(ごく少数の、しかもほとんどはゼミ生である)学生への対応はまだ続くだろう。

そして、入学式を終え、新入生へのガイダンスが行われる。しかし、これがまた厄介である。もちろん、初めて大学というシステムに触れるので、例えば、時間割を自分で決めたりということに不慣れである、というようなことは、個人的には全然問題ではないと思う。問題は、やはり至れり尽くせりの配慮である。自分の学生時代を思い起こせば、よけいなお世話、という感もしないではない。

いったい何をするのかというと、「友達作り」を手伝ってあげるのである。そこまでしてあげる必要が本当にあるの?と毎年思う。自分の勤務先だけではないが、ガイダンスを泊まりで行う大学もあるだろう。自分の勤務先では、この泊まりがけのガイダンスの主要な目的の1つが、この友達作りなのである。

確かに、高校であれば、大抵の都道府県では学校区というのがあって、ある程度限定された地域から進学してくるので、生徒同士に接点がある。しかし、大学ともなると、大学によっては日本全国から進学してくるし、高校のように固定したクラスもないので、友達を作るきっかけが少なくなっているというのである。そして友達ができないと、大学に来ても楽しくないので、だんだん大学に来なくなり・・・、という筋書きが背景にあるらしい。

こんなお膳立てをしてあげたって、友達を作れる人は作れるし、作れない人は作れないと思うのだが。友達がいたってドロップアウトする人はすると思うのだが。

こんな風に考える自分が時代遅れなのかなあ、と最近つくづく考えさせられる。

父母会

新年度の行事と言えば、やはり入学式が真っ先に頭に浮かんでくる。最近では、父母の出席は当然のようで、どうも自分の感覚とは一致しない。学校によっては、父母の席の方が多いところもあるようである(幼稚園だと、父母に祖父母と、入園児の数倍の保護者の出席があったりすると聞いたこともある)。


これほど父母が大学に、というか子供の大学生活に関心があるようだと、大学も何もしない訳にはいかなくなる。そのせいだろうか、具体的な名称は異なるが、最近どこの大学にも、父母会のような組織があるようだ(自分の学生時代にはあったのかなかったのかさえわからない)。


多くの場合、学費以外に会費を徴収する。その代わり(?)、様々な情報を父母に提供したり、父母と面談の機会を設けたりする。父母の関心事といえば、当然子供の就職。成績は卒業できるか否かが重要で、その内容は二の次のようである。内定が出ている場合は、とにかく卒業させろ、という親までいたりする。そうなると、本当に大学の役割ってわからなくなる。


「ちゃんと大学に行っているかどうか、出席状況を逐次報告して欲しい」とか言われてもねえ。


「うちの子は毎日ちゃんと大学に行っているのに、どうしてこんなに成績が悪いのでしょうか」と言われても返答に困ってしまう。


確かに、日本の場合、たいていは父母が学費負担者であるので、彼らに説明する責任はあるのだろう。でも、なんとく方向性が間違っているような気がするのは、旧態依然の思考から抜け出せない自分だけなのだろうか。

新年度入り

4月1日です。エイプリルフールです。○○賞を受賞しました、とか、○○大学に移籍しました、とか、○○に論文の掲載が決まりました、とか(特に同分野の)同業者が吃驚するようなことでも言ってみたいなあ。


しかし、そんなことよりも、形式的にも新年度入りです(実質的には、すでに在学生向けのガイダンスなどが始まっていたりします)。あと1週間もすれば講義もはじまります。忙しくなると、あまり書き込みもできなくなりそう。毎日のように書き込みをしている人のブログを見ると、本当に感心します。

リニューアル

ここ数日ほど、サーバーの大々的なメンテナンスが行われておりました。(アメブロにアクセスした方は、その旨の表示があってご存じかと思いますが。)


で、リニューアルされた画面を見た印象は、どっかのブログと同じような感じ。


で、書き込み等の利用の印象は、余り使いやすくなった感じもしない。はっきり言って、あまり意味無いかも。

なぜ大学には撤退戦略がないのか

先日、また(個人的に?)嫌な話が聞こえてきた。学長がなにか新しい学部だか大学院を作りたがっているらしい。

18歳人口が減り、大学入学者というパイが減少しているのに、新設大学や新設学部をどんどん認めている文科省の方針もよくわからないが、大学のトップもなぜこうも何か新しい、しかも金のかかるものを作りたがるのだろうか。「これが私の学長時代につくった建物です」とか「私が指示を出した新学部です」とか言いたいのだろうか。

企業では事業の選択と集中が行われているのに、大学では規模を縮小(学部の閉鎖)したりして、特定の学部に力を入れる、みたいな方法はタブーなのだろうか。

もちろん、いろんな大学で学部の閉鎖に類することは行われている。しかし、そのほとんどはいわゆる改組であって、既存の学部を廃止しても結局は新たな学部を作るので、規模自体は縮小することはない。しかも、廃止した学部の教員の雇用も確保しなければならないので、実質的には似たような学部になるか、全く異なるような学部では教員の純増をもたらして、何のための改組かわからない例もたくさんある。だから、闇雲に新たな学部等をつくることがそれほど良い戦略とは思えないのだが。

もちろん、こんな事書くと、人(教員の雇用)の問題はどうするんだ、といわれることは想定している。でも、このままでは全員共倒れになりそうな感じでいやなのだが。「おまえが学長ならば、クビを切れるのか?」と聞かれても、YESとはいえそうも無いのも事実なのだが・・・。

在宅勤務の行く末(自虐的視点?)

ここのところ、文系の特権(?)を活かして、大学にはほとんど行っていない。例年、卒業式も終わると、1週間ほどは特に校務がないので、ちょっとゆったりした時間を過ごすことができる。しかし、家にいると、世間は休みと思うようである。だから、この時期家にいるからといって、仕事も何もしないで遊びまくっている訳ではない、と敢えて書いておきたい。

この時期何をやっているかというと、まずは新年度の講義の準備。そして研究。書かなければならない論文を抱えているのに、遅々として進まないで焦っている。

このように大学に行かないと、教員なのに学生と全然接しなくていいの?と聞かれることがある。確かに直接顔をあわすかと聞かれれば、答はNOである。しかし最近は、ネットと携帯(これもネットか?)によって、以前よりも学生とコミュニケーションをとれているような気がしている。もちろん、この時期に連絡を取るのはゼミの学生だけなので、新年度に向けての課題をだしたり、合宿の連絡をしたり、等々。

やや景気も持ち直してきていると言われているが、やはり不景気の影響はまだ大部残っており、以前だったら下宿するようなかなりの遠方からでも、自宅から通ってくる。だから、彼らも大学に呼び出されるよりは良いみたいである(それに乗じているんだろう、と言われると反論しにくいが)。ますます大学に行かなくても用が足せるものが増えてきているような気がする。

そしていずれ、講義も大学に行かなくて良い時代が来るに違いない。そう、ネット講義だ。双方向のやりとりも可能な時代だから、生の講義と変わりはないはずである。そして自分のクビが危うくなる。ネットで講義ができるならば、こんな三流学者を雇っておく必要はないのだから。

となると、やはり大学に行かなければヤバイってことですかね。

愛知万博~イベントは平日に

愛知万博が始まりました。ちなみに、大阪の万博はいってません。果たして愛知万博には行くべきか、行かざるべきか。一回ぐらいは行かないとなあ。講義の時の雑談のネタにもなるし。

でも、このようなイベント、当然週末は混雑します。こういう時に、文系の大学教員になってよかったなあ、と昔は思いました。だって、比較的すいている平日に行くことができるから(一人で行って楽しいかどうかは別問題ですが)。海外旅行も9月の平日に出発するパターンなら料金も安くて助かったんですけどね。

しかし、妻子がいたりすると、そうそう平日だからって自由になりません。子供は学校があったりしますからね。まあ、子供抜きに行くっててもありますけど。

じゃあ、週末に行けばいいかといっても、週末は週末で、学会、研究会、さらには校務と、いろいろ予定も入っていて、なかなか時間がとれません。この余裕の無さがまた問題なんだろうとは思ってはいるのですが。

大学評価

大学基準協会による大学評価の結果が公表されました。早速同協会のサイトに行ってみたのですが、ここでは公表されておりませんでした。だから、この評価結果とは直接関係ない内容ですが、ちょっとばかり書いてみます。

大学の設立にあたっては、ご存じの通り日本では文科省の認可が必要です。簡単に言えば、事前の評価が重要で、その後はある意味ほったらかしだった訳です。日本って、結構そういう感じのシステムが多いですね。余り良い例えではないのですが、例えば、医者。医師免許を取ってしまえば、免許は更新制ではないので、ある意味医療ミスを何回もおこしても医者を続けらるケースもある訳です。

それに対して、アメリカでは自由に大学を作ることができます。規制もありますが、日本に比べれば無いに等しい(アメリカは州ごとに規制が違うという特徴もあります)。詳しくは、アメリカの大学認可制度と無認可大学を読んでいただくとわかりやすいでしょう。

では、大学の(教育の)質はどうかというと、民間の認証団体による認証によって確保されている(例えば、高等教育の質保障についてでも読んでいただくとよいだろう)。だから、法形式上は大学であっても、資格試験を受けるときとか、他の大学に移ったり、大学院に進学する場合に、その大学の単位や学位が認められない場合がある。だから、必然的に、学生はそのような認可を受けた大学を選択することになる。また、同業者による認定ではあるが、日本にあるような仲間内だからというお手盛りはない。

今後、日本もこのような事後評価を重視していくようである。はたして同業者が同業者の生殺与奪を握るようなことが定着していくのだろうか。 自分の勤務先も、大学基準協会の加盟校なので、いずれ評価の対象になるのだろう。また、自分の評価が大学業界での生き残りにも関連してくると思うと、他人事ではない。しかし、その一方で、評価のための書類作りに忙殺されることになるならば、それは避けたいとも思ったりして。もう少し真面目に考えるべきなのかもしれないが、今日はこれぐらい。

謝恩会

卒業式シーズンです。卒業式のあとは、いわゆる謝恩会がある大学も多いようですが、勤務先は謝恩会ではなく、卒業祝賀会です。以前の勤務先も同じでした。いまや先生に感謝する時代ではないようです。こちらが卒業生の卒業をお祝いしてあげる訳です。

でもゼミの学生からたとえ社交辞令としても「お世話になりました。」なんていわれるとちょっと感動します。社会に出たら、社交辞令も大事ですしね。

また、教員も人間です。やはりゼミ生には他の学生よりも色々な意味で思い入れがありますからね(これを差別といわれると困ります)。

書類

個人的なことだけど、書類を書くのが非常に苦手です。でもって、大学って意外に書類が色々と必要なのである。

最悪のケースは、どこか仕事したがり屋(正確には仕事したふり屋か?)が無用な仕事を作り出して、その仕事の一環としてこれまた無用の書類作りに時間が取られてしまうこともある。

毎回、何か良い方法は無いかと思案するのだけれど、ダメですね。

今格闘しているのは、某財団からいただいている研究助成の報告書です。これは研究活動の一環なのでしょうがないのですが、何回書いても苦手です。ちなみに、今年度の科研費は、共同研究者として関わっているだけなので、すでに必要な書類等は提出し終えました。